2011年03月30日
朔ちゃん、点滴!
風邪を引き、体調不良のため、20年間お世話になっていた高松の内科医院を訪ね、診察と点滴。
東北へ災害支援ということで投薬も10日分いただいた。
先生からは、今のような優しい心を何時まで持ち続けて頑張って欲しいと、エールを送ってくれた。
その後、サンポートへ。
香川大学へお勤めの滝川さんとe-とぴあの皆さんから、東北の支援金だということで「お気持ち」をいただいた。
ありがたいことであります。
皆さんの、お力添えをいただき、精一杯の支援活動を実施したいと思っています。
一旦、コミュニティセンタに帰ってから、借用書を携えて、三豊市の上高野文化センタへ。
食事を、大なべから小分けにして避難所へ配達するための「保温食缶」14ℓサイズ6個を、お借りすることとした。
この地域とは、2~3年前から防災を通じて兄弟のようなお付き合いをしてきましたので、快く貸していただき、東北で頑張ってきて欲しいと励ましていただいた。
午後5時30分に、センタへ帰るやいなや、西日本放送の池田さんと電話にて4月8日の生番組についての打ち合わせ。
午後6時からは、4月1日から事務局職員として採用する香川さんと、コミュニティの運営等について、概要を説明申し上げた。
岩崎 正朔
(編集後記)
お疲れ様でした。
さて、今日は、為になるコラムを見つけましたので、引用します。
↓
「此処(ここ)より下に家を建てるな」――。
東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)」
本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)
地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
mixiニュースから引用しました。
最後に、太田南コミュニティセンタの吉原センタ長が、辞められました。
次の理事会後、お疲れ様会を開催したいと思います。
東北へ災害支援ということで投薬も10日分いただいた。
先生からは、今のような優しい心を何時まで持ち続けて頑張って欲しいと、エールを送ってくれた。
その後、サンポートへ。
香川大学へお勤めの滝川さんとe-とぴあの皆さんから、東北の支援金だということで「お気持ち」をいただいた。
ありがたいことであります。
皆さんの、お力添えをいただき、精一杯の支援活動を実施したいと思っています。
一旦、コミュニティセンタに帰ってから、借用書を携えて、三豊市の上高野文化センタへ。
食事を、大なべから小分けにして避難所へ配達するための「保温食缶」14ℓサイズ6個を、お借りすることとした。
この地域とは、2~3年前から防災を通じて兄弟のようなお付き合いをしてきましたので、快く貸していただき、東北で頑張ってきて欲しいと励ましていただいた。
午後5時30分に、センタへ帰るやいなや、西日本放送の池田さんと電話にて4月8日の生番組についての打ち合わせ。
午後6時からは、4月1日から事務局職員として採用する香川さんと、コミュニティの運営等について、概要を説明申し上げた。
岩崎 正朔
(編集後記)
お疲れ様でした。
さて、今日は、為になるコラムを見つけましたので、引用します。
↓
「此処(ここ)より下に家を建てるな」――。
東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)」
本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)
地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
mixiニュースから引用しました。
最後に、太田南コミュニティセンタの吉原センタ長が、辞められました。
次の理事会後、お疲れ様会を開催したいと思います。
Posted by 朔ちゃん at
23:59
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